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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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飛鳥時代 593年~709年 

593年 日本初の女帝 推古天皇 崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺され、またもや朝廷では王位継承問題が。候補は用明天皇の嫡男である厩戸皇子(うまやど)19歳そして敏達と炊屋姫の間に生まれた竹田皇子。年齢は厩戸よりちょっと若い。

2人とも物部守屋攻めに参加していました。そして両皇子とも馬子の外孫。どちらが天皇になっても馬子テキにはOKでした。ですが、ここで天皇になったのが炊屋姫(当時39歳)だったのです。というのも、天皇家としては蘇我氏があまりにも強大になってしまったため、「ちょっとヤバイんじゃ?」という雰囲気になっていました。

ホントは聡明な厩戸皇子を即位したかったんだけど、天皇になると蘇我氏にイジメられるかも・・・と不安もあった。それに厩戸皇子は身分が少し低くかった。朝廷は「いくら賢いといっても、まだ若いしなぁ。下手に若造を天皇にしたらますます混乱しちゃうんじゃないの?」「そうだなぁ。どうしたらいいもんかなぁ」

「おいおい、炊屋姫なんてどうよ?39歳だし、申し分ない血筋だぜ?それにずっとご意見番として朝廷にいたしさ。この際、炊屋姫を天皇にしちゃったほうがいいんじゃないの?」こうして馬子と親密な関係にある炊屋姫は推古天皇となったのです。そして厩戸皇子を「摂政」という地位につけ、政務を行わせることにして、推古・馬子・厩戸皇子の三頭政治がスタートとなったのです。


近親婚は当たり前!この頃の結婚事情 

この時代の「結婚」は同じ父・母を持つ兄妹は結婚しちゃダメだけど、叔父・姪とか叔母・甥の結婚は当たり前でした。これは皇室だけではなく、豪族にも同じこと。この頃は男性が女性の家に通うという結婚の形が多かった。子供は母の実家で生まれ育ちました。

男性は何人も妻を娶ってOKなので、父は同じでも母が違えば別の家で育つのです。しかも皇室の場合は地位が特殊だったため、結婚相手を一族以外に求めることが難しかった。皇子なら地方とかの娘を招くこともできたんだけど、皇女の場合は他の一族の男性との結婚ができなかったのです。そして由緒正しい血統にするために皇后は皇族でなければならなかったのでした。

ということで、天皇の地位が高くなればなるほど、近親婚が濃密だったのです。


旧一万円札★聖徳太子 

聖徳太子は、母親が厩の戸にぶつかり、そのはずみで生まれたといいます。推古天皇の甥で、摂政になった聖徳太子は、蘇我氏の権力をのさばらせないよう改革を行いました。574年に生まれた聖徳太子。父は用明天皇 母は穴穂部間人皇女。

用明天皇の母は堅塩姫で、穴穂部間人の母は小姉君です。ともに蘇我稲目の娘です。太子は天皇家と蘇我氏の血を引いてるだけでなく、用明天皇即位の時に戦った女性二人の血を引いてるのです。聖徳太子は、中国の優れた文化をよく学びました。

607年には飛鳥に法隆寺(ほうりゅうじ)を建てました。法隆寺は、現存する世界最古の木造建築です。一度火事にあいましたが、8世紀はじめに再建されました。また聖徳太子は1度に10人の話を理解したと言われています。数々の伝説が残っていますが、ほとんどが作り話です。

というのも、法隆寺を建てた時の坊さんたちが、なぜか聖徳太子ファンで、聖徳太子を「神格化」したからで、「太子信仰」なるものができて、逸話や伝説が多く生まれたといわれています。まぁ、そういった話しが出てくるほど賢かったとも言えますね。


603年 冠位十二階 

603年に冠位十二階を作りました。冠位十二階とは、これまで朝廷の冠位は家柄によって決まっていて、親から子へ譲っていました。聖徳太子は「これからは能力ある人を採用していこう」というシステムにし、個人の才能によって冠位の色が定められるようにしたのです。これは1代限りで子供へは譲れないようになりました。

親さえエリートであれば、バカ息子でもエリートになれるという習慣にストップをかけたのです。えらい色を順番にすると、紫→青→赤→黄色→白→黒となります。ちなみに蘇我氏はこれに大反対してました。聖徳太子も、さすがに蘇我氏をいじくるのは難しくって蘇我氏だけは紫を自動的にあげちゃうという別格扱いをしました。


604年 十七条憲法 

聖徳太子は冠位十二階を定めた翌年の604年。今度は十七条憲法を作りましたこの憲法は道徳っぽいことが多いものでした


・和を大事にしなさい
・仏と僧を大事にしなさい
・天皇の命令には従いなさい 
・欲は捨てなさい


などなど、悪い政治をしちゃだめだよ!という感じで、仏教の影響を強く受けた天皇を中心とする国のあり方を強調したものとなりました


605年 聖徳太子 斑鳩(いかるが)へお引越し 

推古天皇時代の政治は、推古・馬子・聖徳太子の3人によって行われました。推古は蘇我氏の勢力内にある飛鳥の近くに居を構えましたが、聖徳太子はなぜか飛鳥から遠く離れた斑鳩に宮を造ったのです。

その距離は16キロほどあり、馬で行ったとしても片道2時間くらい。なぜそんな不便なところへ?というと政治争いの中心から離れ、傍観者の立場で外から冷静に政治を眺めようということと、ゆっくりと仏教に親しもうということだと言われています。が、実際は馬子となんらかの摩擦があったと言われています。

また斑鳩は太子の4人いる奥さんの中の一人、大娘妃(おおいらつめ)の実家があり、数少ない信頼できる豪族の膳氏(かしわでし)がいました。


607年 小野妹子の遣隋使  

聖徳太子は、中国の隋へ「遣隋使」を派遣。小野妹子を手紙を託しました。小野一族は、学問に優れた一族で妹子は冠位十二階の制度により出世した人です。。ちなみに、妹子は男です。

中国とは今まで親分・子分の関係だったので、これからは対等になろうとした聖徳太子。といのも、隋はこの頃高句麗(こうくり)と戦争中で、治安もぼろぼろだったのです。今の状態では強気になれないだろう!と、聖徳太子は予想しました。

手紙の内容は、「日出ずる処の天子。書を没する処の天子に致すつつがなきや。云々・・・」というもので、訳すと「私は日が昇る国の偉い人。あなたは日が沈む国の偉い人。ところで、最近調子はどうなの?」といった中国にタメ口をきく内容。当時としては、かなり偉そうな手紙でした。

これを読んで隋の煬帝(ようだい)は激怒しまくりました。「ふざけんなや!オレ様をなんだと思ってんじゃ!」と、ボロクソに書いた返事を小野妹子に持たせたのです。さすがに妹子は「こんな手紙を聖徳太子に渡せないよ・・・」ということで、しょーがなく妹子は「なくしました」と言ったのです。ちなみにこの手紙から11年後、隋は滅びました。聖徳太子は国内では蘇我氏を押さえようとし、国外では隋と対等に付き合おうとしましたが、結局は両方ともうまくいかなかったのです。


622年 聖徳太子 突然死 

聖徳太子が「摂政」として活躍したのは前半の15年くらいだけでした。後半は斑鳩で政治の第一線から離れ、仏教三昧の日々。そして突然、聖徳太子が死んでしまうのです。これには色々説があります。自分の「死」を予告したことから自殺説があります。

また聖徳太子が死んだ時、国内の人々に異変が起こったそうです。一瞬食べ物の味がわからなくなったり、幼児が一斉に泣き出したり・・・という伝説が残っています。ほかにも死ぬ直前に「この世は虚しい。仏だけが真実じゃあ!」と言ったとも。

とにかく突然死してしまった聖徳太子。天皇になれず、最後が不幸だったことから気の毒がられ「聖徳」という最高にいい名前を後世つけられたのです


聖徳太子ってホントはどうなの? 

実は聖徳太子は謎の人です。冠位十二階や十七条憲法も、ほんとは聖徳太子が作ったんじゃないんじゃないの?とも言われています。冠位十二階については「皇太子が冠位十二階を作った」とだけ書いてあり、その皇太子が聖徳太子のことだっていうのは一切書かれてないし、さらに十七条憲法も大化の改新の後に作られたという説もあるのです。

では何故、聖徳太子なんていうご立派な名前を付けられ、今でも「聖君」として歴史に輝いてるのか?というと・・・正直「不幸でかわいそうだったから」と言われています。皇子でありながら「天皇」になることができず、さらに聖徳太子の血筋は滅亡してしまいます。そのため「悲劇の人」として「太子信仰」がさらにヒートアップし、現在に到ったとされています。


有力者次々と死去! 

聖徳太子の死は、かなり朝廷を動揺させました。というのも、推古天皇は政務をほとんど聖徳太子にまかせていたのでした。ゆくゆくは、聖徳太子が推古天皇の跡を継ぎ、太子の息子「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」がその後を継ぐもの・・・と、思われていました。

推古天皇も聖徳太子を後継者にと決めていました。そんな中での聖徳太子の死。そうこうしているうちに、朝廷の最大の実力者だった蘇我馬子が626年に死去。さらに推古天皇が2年後の628年に死んでしまったのです。馬子の後は子の蝦夷(えみし)が大臣となりました。


次の天皇は誰だ? 

推古天皇が後継者を指名しないまま死んでしまったので、またもや皇位継承者問題が勃発!有力候補は2人。一人は聖徳太子の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)一人は押坂彦人皇子の子である田村皇子でした。両方とも「天皇の孫」なので血統的にはOK。ここで蘇我蝦夷(えみし)は考えました。

「うーん・・・両方ともワシの甥なんだよな。でも、山背大兄王はあの聖徳太子の息子だから人気抜群なんだよなぁ。あいつを天皇にしちゃったら、ワシの思い通りになんないかもしれんな・・」と。さらに蘇我氏一族でも「蝦夷の血統ばかりがエバってるから、ここは山背大兄王を押すか!」という話しもチラホラ・・・結果、蘇我蝦夷は田村皇子をプッシュすることにしたのです。


629年 34代 舒明(じょめい)天皇 

蘇我蝦夷は謀略を駆使して、人気のある山背大兄王を退け、田村皇子を即位させることに成功しました。舒明天皇の時代は穏やかな時代が少しだけ続きました。630年に唐へ遣唐使を送りました。またこの頃607年に聖徳太子が遣隋使として覇権した南淵請安(みなぶちのしょうあん)らが帰国。

南淵は中大兄皇子と中臣鎌足の学問の師匠となります。が、平和な時代は13年しか続きませんでした。


642年 35代 女性天皇第二弾 皇極天皇 

舒明天皇死後、またも後継ぎ問題が。この時の有力候補は、上に書いた山背大兄王と、舒明天皇の息子である古人皇子(20歳)・中大兄皇子(16歳)でした。3人の候補者の誰を皇位につかせるか決まらず、とりあえず・・・ということで、舒明天皇の奥さんが天皇に。これが皇極天皇です。

この時すでに49歳。次の天皇を決めるまでの中継ぎみたいな感じです。


独裁者 蘇我入鹿がデビュー! 

蘇我蝦夷の息子 入鹿(いるか)は、生まれたときから飛ぶ鳥を落とす勢いの蘇我氏の御曹司としてチヤホヤされていました。エリート中のエリートです。幼い頃、他の貴族の子たちとともにお勉強をしていました。そこの先生が中臣鎌足に向かって「ワシのところに来ている生徒の中で、君に並ぶものは蘇我入鹿くらいじゃ」と言ったそうです。

御曹司の上に秀才。そして温厚な父・蝦夷に似ずに、馬子似の傲慢で勝気なタイプでした。そして皇極天皇が即位したと同時に、蝦夷は入鹿を自分と同じく天皇の補佐役に置いたのです。そんな入鹿が邪魔に思っていたのが山背大兄王でした。有力な皇位継承者というだけでなく、人望もある山背大兄王。

蘇我氏はいくら権力を持っていても、皇族でないので天皇になれない。なので蘇我氏は傀儡天皇をたて、自分達の思うがままに権力を発揮するしかないのです。聖徳太子の血筋である山背大兄王が天皇になってしまったら、蘇我氏の衰退は目に見えている。邪魔者は消さねば・・・。

若く、血気盛んな入鹿は、武力によって亡き者にしようと考え始めるのです。


643年 山背大兄王の自害 

世の中は、蘇我氏一色。だんだんと、聖徳太子の政治を懐かしむ人が増えてきていました。さらに、当の本人山背大兄王も、「舒明天皇・皇極天皇が即位して、なんで聖徳太子の息子の俺が天皇になれないんだ?」と不満を言い出したのです。

それを受けて、山背大兄王に政治をやってもらいたい!という声も出始めました。「いまさら出てこられても困るんだよ!」と入鹿らは、斑鳩(いかるが)にいる山背大兄王に攻撃をしかけたのです。

斑鳩宮にいた山背大兄王は、「私が軍を起こしたら入鹿を討つことはできる。が、私1人のために人々に害を及ぼすことは望まない。だから、私の身を入鹿にくれてやる!」と言い、妻子とともに643年自害したのです。

ここで、聖徳太子の血は途絶えてしまいました。入鹿は、「あースッキリ。これで喉にひっかかる骨がとれた」と、ホッと一安心したのです。


蘇我入鹿どうよ?殺っちゃわない?中臣鎌足動く 

中臣鎌足(なかとみのかまたり)のいる中巨家は、朝廷内で神事(お祭りや儀式)を担当する家柄でした。鎌足は、蘇我入鹿が朝廷内で権力を握りまくってるのがおもしろくなかった。勢力を失いつつあった中臣家は、密かに蘇我氏打倒計画を練るのです。

鎌足の動きを察知した入鹿は、「余計なバトルはしたくないな」と、鎌足を自分の陣営に引き入れようと、いい位をあげようとしました。が、鎌足は引き受けず、自由を確保するために摂津へ引きこもるのでした。まず鎌足は、皇極の弟の軽皇子(かるのおうじ・後の孝徳天皇)に、相談します。が、「こいつはたいしたことないなー」と、ターゲットを若くて熱い19歳の中大兄皇子に変えたのです。


中臣鎌足 中大兄皇子とツルむ 

中臣鎌足は、軽皇子が一緒にツルむ器じゃないと判断しました。そして中大兄皇子に狙いを定めたのです。飛鳥寺で行われた打毬の遊びの際に、鎌足は中大兄皇子のもとへ。その時、鎌足の蹴った毬が中大兄皇子のところへコロコロ転がっていきました。

すると中大兄皇子はめちゃくちゃ丁寧にその毬を鎌足へ渡したのです。鎌足は「家臣に対しても、このような礼儀正しい立ち振る舞い。この方こそ、世を治める器ではないか!」と、感心。早速鎌足は中大兄皇子に計画を打ち明けるのです。

この時鎌足31歳 中大兄皇子19歳でした。舒明天皇&皇極天皇の子である中大兄皇子はというと、入鹿が山背大兄王を攻撃したので「次はオレかも・・・」と思ってたところに、中臣鎌足が相談してきたので、意気投合。

蘇我入鹿暗殺に動き出すのです。そして蘇我氏一族の中から、蘇我石川麻呂を味方に引き込みました。蘇我石川麻呂は、馬子直系ばかりが権力を握ってるのが不満だったのです。結びつきを深くするために、蘇我石川麻呂の娘を中大兄皇子に妃に送り込みました。もちろん入鹿はそんな反蘇我氏の動きを用心していました。


645年 乙巳(いっし)の変 朝廷震撼のクーデター事件 

乙巳(いっし)の変とは、大化の改新の始まる前の出来事です。中臣鎌足・中大兄皇子らの蘇我入鹿暗殺計画はというと・・・決行は6月12日 朝鮮から使者が来る時、手紙を取り次ぐ儀式がある。

最高責任者である入鹿はもちろん出席。その時を狙おうというものでした。入鹿は、どこに行くにも剣を持ち歩く用心深い人でした。が、この時は、前もって打ち合わせしていた芸人が、パフォーマンスとして剣をが冗談でとりあげたので、入鹿も笑って剣を預け席に着いたのです。

中大兄皇子らは、2人の刺客を雇い、入鹿を殺すよう命令していました。蘇我石川麻呂が使者からの手紙を読む役目で、この時に入鹿を殺す手配になっていました。が、いつまでたっても2人の刺客が恐ろしさのあまり、動揺して動かないのです。

蘇我石川麻呂は「おかしい・・・何をやっているんだろうか・・・・」と、だんだん緊張してきてしまいました。手紙を読む声が震え始め、体もガクガクと振るえ、抑えられなくなってきたのです。不審に思った入鹿。

「なぜそんなに震えるのか?」と声をかけたその瞬間、堪えきれなくなった中大兄皇子が、柱の影からが飛び出し、入鹿に切りつけたのです。「私が一体何をした!?」と叫んだ入鹿。居合わせた皇極天皇も突然の出来事にびっくり!入鹿は皇極天皇に助けを求めました。

皇極天皇も、「一体これは何なのだ!?」と叫びました。すると中大兄皇子が、「入鹿は天皇家の皇子を殺そうとしている!そして天皇家の力を弱めようとしている!あなたはどっちが大事なのですか!!?」と言ったのです。すると、皇極天皇はさっさと奥に引っ込んでしまい、入鹿はそこでめった刺し。非業の死をとげたのです。

異変を知った父の蝦夷は、早急に兵を用意し人々に協力を要請しました。が、最初協力しようとしていた人も次々と蝦夷を裏切っていったのです。もはやこれまでじゃ!と悟った蝦夷は、情勢が不利とみて屋敷に火をつけ自害これで、4代・50年以上続いた独裁者 蘇我氏は滅びました。

これを乙巳(いっし)の変といいます。


蘇我蝦夷&入鹿親子はホントに悪人だったのか?? 

「悪人」というイメージの蘇我氏ですが、本当に悪い人だったんでしょうか??イメージ的に、(特に入鹿)は「悪人」と言われてますが、日本初の史書「日本書紀」に、そう書かれてるから。だけど「日本書紀」というのは、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子らの子孫が書いたものなので、中大兄皇子からしてみれば「大悪人」になる蘇我氏。

英雄に逆らった逆賊になっちゃったんだもんね。ですが実際は、蘇我氏が政権を行ってた時は、民衆の不満の声はあまりなく(おエライさんたちからは独裁者なのでブーイングでしたが)、むしろ中大兄皇子らが政治をやり始めた時の方が、不満の声が高かった。さらに、入鹿は政治的にも有能で、盗賊らは入鹿を怖がり罪人は減ったのです。

入鹿による山背大兄王攻撃も、入鹿1人がやったかのようになっています。が、実際は朝廷全部の意見で、入鹿に全責任を負わせるのはおかしいのです。ちなみに、630年に遣唐使を派遣したのは入鹿による功績です。ということで蘇我氏はそんなに悪くなかったのではないか?と思われます。


645年 大化の改新 

乙巳(いっし)の変の翌日、息子の殺人現場を見た皇極天皇は、天皇を辞めたくなっちゃいました。中大兄皇子に位を譲ろうとしましたが、中大兄皇子は聖徳太子に見習い「摂政」をやって政治を握ったほうが後々やりやすいということで、叔父の軽皇子に譲りました。

ここに36代孝徳天皇が誕生しました。この時50歳であります。年号を大化に改め、これにちなんで「大化の改新」と呼びます。孝徳天皇は、都を飛鳥から大阪に移し、新しい政治の方針を発表しました。といっても、中大兄皇子に言わされてるだけなんだけどね。

大化の改新の詔(みことのり)はというと、


・皇室や豪族が持っていた土地と民を国の物とする(公地公民)

・全国を国・郡・里に分けて治め、地方には「国司(こくし)という地方の政治・軍事・財政・裁判などをやらせた。

・戸籍を作り、それに基づき民に田を貸し与えるという班田収授(はんでんしょうじゅ)の法


土地を貸し与えられた人は税を納める祖(そ)・庸(よう)・調(ちょう)の税祖は稲の収穫高の3~5%を納め、庸は一定の布か一定期間の労働。調は特産物を納めること。これらを定め、天皇中心の国の仕組みを作ろうとしたのです。


蘇我石川麻呂の変 

大化の改新は順調にすすみ、官僚制度の整備もひと段落。政治の実権を握りたがっていた中臣鎌足からしてみれば、邪魔なのは「長老」たちの存在でした。ちょうどグッドタイミングで阿部左大臣が病死。そうすると邪魔なのは、ともに入鹿を破った仲間で、右大臣となっていた蘇我石川麻呂でした。

鎌足は蘇我石川麻呂の実の弟である蘇我日向に話を持ちかけました。兄の石川麻呂が死んだら、お前を右大臣にしてやるゾ・・・と。そして日向は「兄は、皇太子が浜辺に遊びに行くのを狙って暗殺しようとしてます」と実の兄を売ったのです。中大兄皇子はこれを信じて、石川麻呂の家を包囲しました。石川麻呂はもうダメだーと、自害しました。この時の関係者の処罰は斬首14人絞首9人という入鹿暗殺クーデターにつぐ大人数でした。

ところが!ことが落ち着いた後、石川麻呂の持ち物を調べた結果、石川麻呂は無実だということが判明。中大兄皇子は悲観にくれて、密告した日向を大宰府に左遷しました。ですがこれはちょっと話ができすぎているという説があります。石川麻呂をよくよく調べもしないで、即座に兵を出し家を囲むというのはあまりにも早急すぎるし、日向も大宰府左遷とはいってもその位は最高級。なので、鎌足と中大兄皇子が実は共謀していたといわれてます。


中大兄皇子の時代到来 

19歳で蘇我入鹿・蝦夷をやっつけた中大兄皇子は、孝徳天皇の時代、皇太子として実権を握り続けていました。中大兄皇子はかなりのプレイボーイで、当時いい女NO1の額田王(ぬかたのおおきみ)を妃にしてました。ちなみに額田王は、弟である大海人皇子の妃だった人。

この2人には娘もいたのに、大海人皇子から奪い取っちゃった形になります。ちなみに、孝徳天皇の奥さんとも不倫。この奥さんは中大兄皇子の実の妹です。中大兄皇子は自分の妹とずーっと近親相姦の間柄。

当時、異母父との兄妹結婚はOKでしたが、同父母の兄妹結婚は絶対禁止!天皇になっちゃったら「皇后」を迎えなきゃなんないけど、中大兄皇子は実の妹が大好きだったので、天皇にならなかったとも言われています。そして、この不倫が原因なのかわかんないけど、孝徳天皇と中大兄皇子は次第に仲が悪くなっていくのです。


孝徳天皇VS中大兄皇子 

孝徳天皇は天皇でありながら、権力は中大兄皇子が握りまくっているのが気に入らなかった。さらに自分の奥さんと中大兄皇子がラブラブなのもむかついてました。そんな時、突然中大兄皇子が「やっぱ都は大阪より飛鳥でしょ!」と言い出したのです。

孝徳天皇は「何勝手なこと言っとんじゃ!」と激怒!「そんなに飛鳥に行きたければ、お前1人で行けば?」と言ったのです。孝徳天皇からしてみれば、いくら中大兄皇子が権力を握ってても自分は天皇だし!誰が皇太子ごときの言うことなんか聞くか!という気持ちがあったのです。が、中大兄皇子が飛鳥に引っ越すぞ!といった途端、孝徳天皇の奥さんや自分の家来の殆どが、飛鳥について行ってしまったのです。

孝徳天皇は「ワシ、天皇なのに・・・」と、ショックで病気がちに。愛する奥さんにも捨てられ、翌年失意のまま死んでしまいました。孝徳天皇の息子・有馬皇子だけが、最後まで病気の父を看病をしていたのです。


655年 天皇返り咲き 37代斉明天皇 

孝徳天皇が死んでしまったので、次の天皇候補は孝徳の息子である有馬皇子と中大兄皇子でした。ですが中大兄皇子は有馬皇子に天皇を譲りたくなかった。いずれ自分がなるつもりだったし、次は自分の息子大友皇子(おおとものおうじ)をゆくゆくは天皇にさせたかった。だけど「オレ、まだ妹(孝徳天皇の奥さん、間人皇后)」がすスキなんだよな。だからまだ天皇にはなれないんだよな」と、考えまくり。

今の段階で間人皇后との愛を捨てるのはイヤ。それに、もし中大兄皇子が天皇になったら「皇太子」を立てなきゃいけない。息子の大友皇子はちびっ子なので、有馬皇子を差し置いてまで「皇太子」に任命するのはまだムリ。そして考えた結果は・・・。大友皇子が「皇太子」になれる年齢になるまで、母である皇極をもう一度天皇にさせよう。で、大友皇子が大きくなったらオレが天皇になって、大友皇子を皇太子にさせよう!それまで妹とイチャついてよう。と考えたのです。

中大兄皇子は、母である皇極天皇を天皇に返り咲きさせたのです。ちなみに一度天皇を退位してから、もう一度皇位につくことを「じゅうそ」と言います。これは日本史上初めての出来事でした。そして名前を変えて37代斉明(さいめい)天皇に。中大兄皇子は皇太子のまま実権を握ることに。

※ちなみに、天皇の名前は後世につけられたもの。当時は、○○天皇という呼び方はしなかった。



658年 悲劇の皇子・有馬皇子の変 

有馬皇子は有馬温泉で生まれた皇子らしいです。孝徳天皇の息子である有馬皇子は、「中大兄皇子にとって邪魔なのは僕だ。いつか殺されるかもしれない・・・」と思い、バカのふりをするようになっていました。が、中大兄皇子には狂ったふりは通用しなかった。

そんな中、中大兄皇子や斉明天皇は、温泉に慰安旅行に出かけました。すると、中大兄皇子の側近である蘇我赤兄が有馬皇子のもとへやってきたのです。赤兄は、「斉明天皇は全然ダメだ!目を覚まさせるには、中大兄皇子や中臣鎌足らを殺すしかない!」と力説。今度謀反の計画を一緒に考えましょう!と、場所と日にちを告げました。有馬皇子は、指定された日にそこへ出かけると、赤兄や赤兄が連れてきた他の人たちを計画をたて始めました。が、どうも様子がおかしく、有馬皇子は計画を中止しそのまま家に帰ったのです。

その日の夜、有馬皇子の家に兵がやってきました。「有馬皇子に謀反の疑いあり」謀反の連絡をしたのは蘇我赤兄。全て中大兄皇子による計画だったのです・・・。騙されたことを知った有馬皇子は、抵抗むなしく首を絞め殺されて処刑されてしまったのです。中大兄皇子の厳しい尋問の際に「天と赤兄は知る。われはもっぱらわからず」と、捨て台詞を吐きました。「天」とは中大兄皇子を指した言葉で、自分を陥れた張本人はお前だ。お前と蘇我赤兄は自分が何をしたか全てわかってるんだろ?という意味です。

有馬皇子18歳でした。まさに恐怖政治の時代でした。謀略にはまった有馬皇子には世間の同情が集まりまくりました。山上憶良(やまのうえおくら)は歌まで送ったそうです。


661年 女帝 百済へ向かう! 

この頃、朝鮮では戦乱の時代を迎えていました。新羅VS百済の戦いが始まっており、新羅は、唐を味方につけ百済を押すように。そしてとうとう百済が滅亡してしまうのです。朝廷では友好国である百済の滅亡に大騒ぎ。さらに百済は国家再興の意志が強く、日本に援軍を要請してきたのです。

朝廷はどうしようか・・・と悩みまくり。友好国である百済を応援したいのは山々ですが、敵は新羅・唐の連合軍。苦戦するのは目に見えているし・・・。だけどこのまま百済を見捨てると、長年日本の勢力下にあった半島の経営を失うこととなるし、もしかしたら新羅・唐連合軍は百済をやっつけた後日本にやってくるかもしれない。

斉明天皇は悩みに悩んで、百済に水軍を送ることに。そして661年に68歳になった女帝斉明天皇は自ら軍船に乗り、中大兄皇子・大海人皇子を率いて百済へ向かったのです。さらにこの船には天皇と両皇子のほか、鵜野讃良皇女(後の持統天皇)や額田王も同船しました。ちなみに天皇が中央を離れたのは伝説以外では初めてのこと。


663年 白村江(はくすきのえ)の戦い 

筑前の朝倉宮に本陣を構えた朝廷軍。ですが肝心の斉明天皇が旅の疲れと暑さのため急死してしまいました。68歳と高齢だったので仕方ないですね。そして采配を振るったのは中大兄皇子。中大兄皇子は、天皇の資格のある人が即位をしないで政治を行うという「称制(しょうせい)」を行い、遠征の準備にとりかかりました。

そして5000人余りの第一軍が朝鮮半島へ向かったのです。その後も続々と援軍が集まり、32000人に膨らみました。迎え撃つ新羅側も唐に援軍を頼み決戦の白村江へ。が、この勝負は日本軍の惨敗に終わりました。

陸上でも百済復興軍の本拠地が落ちてしまい、日本軍は散々な目にあいながら、なんとか日本へ戻りました。その後はいつ唐・新羅軍が攻めてくるかわからないので九州に城を作り、防人(さきもり)という兵隊を置いたり防衛を強化しました。そして百済も完全に負けて滅亡してしまう。

百済の亡命者は日本にかなり逃げ込んできた。すぐれた技術を持っていたので、この亡命者らによって「白鳳文化」が創られます。薬師寺とかの仏像もこの人たちによってです。


中大兄皇子 評判ガタ落ちとなる 

白村江での敗戦・大規模工事による財政の負担・さらに国内において有力者を殺害しまくり・・ということにより、中大兄皇子の政策に対してあちこちから批判が出るようになってきました。だけどこの時、中大兄皇子には「ライバル」と呼ばれる人が一人しかいなかった。

それが弟の大海人皇子であります。中大兄皇子はさっさと天皇になりゃいいのに、まだ間人(はしひと)皇女と関係が続いていたので、即位できない状況でした。ライバル大海人皇子には、自分の長女 大田皇女と次女 鵜野讃良(うののさらら)皇女を妻に与えていたので、

とりあえずはダイジョブだろと思っていました。ちなみに鵜野讃良は13歳の時に、27歳の大海人皇子に嫁がされました。そして白村江の戦いの時にも、大海人皇子は同船しており、兄を責める資格がなかったので、この頃の中大兄皇子はまだ安泰でした。


668年 やっと即位 38代天智天皇  

天皇の席が空席の状態が続き、唐や新羅の攻撃にそなえて九州の防御を固めていた頃、大好きな間人皇女が死んでしまいました。そしてとうとう中大兄皇子は43歳にして38代天智天皇になるのです。都を飛鳥から近江(大津市)に遷都しました。皇后には古人大兄皇子の娘・倭姫王(やまとひめのみこ)。そのほか9人の妃を娶りました。が、倭姫王との間には子供が出来ずにおり、他の妃から生まれた皇子で成長したのは3人。一人は死亡。

一番最年長が大友皇子でしたが、皇位を継承できるのは身分の高い皇族出身の皇后・皇妃でなければならず、大友皇子の皇位継承は難しいものとされていました。大友皇子の母は身分が低く、さらに他の皇子2人も身分が低かったのです。それでも天武天皇は聡明な自分の息子 大友皇子を非常に可愛がりました。もちろん、皇位を継がせたいと思うようになるのです。大友皇子は体格もよく博学で、文武に優れた皇子だったそうです。


669年 中臣鎌足死去 

中大兄皇子はホントは皇太子には大友皇子を置きたかったんだけど、大海人皇子(おおあまのおうじ)たいたので、しかたなく大海人皇子を皇太子に。そして重臣に中臣鎌足を置きました。が、天智天皇は次の天皇は大友皇子を考えいたので、次第に大海人皇子を無視するように。

中臣鎌足はこの天智&大海人皇子の間に入ってなんとか調整していたんだけど、とうとう死去してしまったのです。

鎌足の死によって、バランスが崩れていくことになるのです。ちなみに、鎌足は死ぬ前に天智天皇より「藤原姓」をもらいました。

この後、藤原家は天下とりまくり、第二次世界大戦直後に服毒自殺した近衛文麿(このえふみまろ)まで1300年間、日本の政治の中枢にあった藤原一族を築くのです。これはまた後ほど。


671年 天智天皇 大海人皇子と険悪に・・・ 

天智天皇は671年の人事異動の時に、今までにないポスト「太政大臣」を造りました。そして太政大臣に大友皇子を置いたのです。新しい官職を造ってまで大友皇子を政治の中枢に置いたのでした。

この時大友皇子は23歳。太政大臣という新しいポストによって「皇太子」のポストにいる大海人皇子の地位は危ういものとなってきたのです。さらに鎌足という仲介役もいなくなったため、2人の仲はだんだん険悪になっていくのです。大海人皇子も、自分の恋人額田王も兄に盗られ、さらには天皇になる可能性もなさそうな雰囲気になると、おもしろくなくなってきたのです。


671年 大海人皇子 天皇即位をあきらめた??

天智&大友VS大海人という緊張した中で、8月天智天皇が病気になりました。10月になっても治らず、いよいよこの病気はヤバイぞ・・となると、天智は大海人皇子を病床に呼び寄せました。この時、大海人皇子を気の毒に思っていた蘇我安麻呂が大海人皇子に「こころしてお答え下さい」と忠告をしたのです。そして天知天皇の前に現れた大海人皇子。

病床の天智天皇は、大海人皇子に「天皇になりたいか?」と訊ねました。
実は天智天皇は、大海人皇子を天皇にする気などさらさらなかった。

ここで大海人皇子が「天皇になりたい」と言ったら、殺そうと思っていたのです。そんな空気を察していた大海人皇子は、「私は天皇になる気などありません。政治は大友皇子にまかせてください。出家して吉野へこもり天皇の病気が治ることを祈ります」といい吉野へ引っ込んでしまいました。

側近は、「虎に翼をつけて自由にさせたようなものだ。」と語りました。
民衆らも、このまま大海人皇子が吉野に引っ込んでるわけがないと思っていました。


671年12月 天智天皇死去 

吉野へ引っ込んだ大海人皇子は、天智天皇の追っ手を恐れてただひたすらおとなしくしていました。いっぽう天智の病気はさらに悪くなり、12月3日とうとう46歳で死去しました。そして大友皇子が新しいボスとなったのです。が、この大友皇子は本当に即位したのかどうか謎なのです。

日本書記をはじめ、どの文献にも大友皇子が即位したという言葉がないのです。江戸時代に書かれた水戸光圀の「大日本史」には大友皇子は即位したと書かれており、明治時代になって大友皇子には「弘文天皇」の称号が与えらました。大友皇子の皇后には、大海人皇子と額田王の娘である十市皇女です。



672年 古代最大の内乱 壬申の乱 

天智天皇の死を待っていた大海人皇子。大友皇子も、父 天智天皇の頃から邪魔だった大海人皇子をやっつけるため、兵を挙げる準備をし始めました。対する大海人皇子も兵を挙げることを決心したのです。ちなみに大海人皇子の半生は謎だらけ。

白村江の戦いから名前が出てくるので、それまでナニしてたのかさっぱりわからん状態です。そのため天智天皇とはホントに兄弟なのか?とか渡来人じゃないのか?という説もあります。大海人皇子は、部下に兵を集めさせ近江を先制攻撃。

天皇へ反乱を起こすというのに何故兵がこんなに集まったかというと、旧豪族らは天智天皇の進歩的な改革がイヤだったからと言われています。また大化の改新以来、地方豪族や地方人民らは中央に対する不満がたまりまくっていて、名門の大豪族にも腹を立てていたため、みんな大海人皇子の味方をしたとも言われています。

他には白村江の戦いの時に、命を懸けて戦った兵への褒美が少なかったので、兵は不満を持っていからなどなど。様々な理由がありますが、どうやら大海人皇子は人気があったそうです。で、攻撃を受けた大友皇子側も奮闘しましたが、1ヶ月後、とうとう敗戦が決定的になると大友皇子は自殺してしまいました。

重臣らは処刑されました。この戦いを壬申の乱といい、古代日本史上最大の内乱といわれています。なぜ最大かというと、「日本書紀」で一番多く書かれてるから。


673年9月12日 40代 天武天皇(てんむ) 

壬申の乱によって、有力な豪族らも数多く死にました。混乱がやっと収まったとみた大海人皇子は、飛鳥に入り新しい皇居を造りました。これが飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で、翌年373年天武天皇として即位。皇后には鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)がなりました。

戦いが強い人が天皇になったということで天武天皇の時代は天皇家の権威が高まりました。天智天皇は偉大な帝王と思われていたので、その天智天皇系等を倒したからです。また天武天皇は右大臣・左大臣を誰も置かず、皇后とわずかな皇子だけで政治を行ったのです。正直、独裁政治でした。


天武天皇の政策 

天武天皇は権威を高めるために色々な政策を実行しました。白村江の戦いの時に、一部豪族に私有地を認めていたんだけど、これを全部天皇の物にし完全な公地公民を実施。
 また「八色の姓(やくさのかばね)」という身分制度を整えました。天皇にどれだけ近い家柄かとか、壬申の乱以前にどれだけ偉かったかを基準にして身分制度を整えたのです。が、これは豪族の不満がたまりまくったのです。

天皇一家だけに権力がたまる天武政治にムカつくようになっていきました。また、日本の歴史をまとめ本にしようとしました。タイトルは「帝紀」や「旧辞」後に日本書紀や古事記の元になりました。天武天皇は、律令国家を推し進めたました。

律令国家とは天皇と貴族たちが中国文化と取り入れ、新しい支配体制を整えようとゆうもの。全国の土地や人を様々な制度で統治しようとしました。 

次の天皇レースはどうなる?

 天武天皇は何人も奥さんがいて、わかってるだけで10人の息子と、7人の娘がいました。そのため皇位を誰に継がせるか?と、天武天皇は次の後継者に頭を悩ませていました。候補は3人。長男の高市皇子次男の草壁皇子(くさかべのみこ)三男の大津皇子(おおつのみこ)ですが、長男の妻は身分が低いため却下。

次男の草壁皇子の母は鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)そして三男の大津皇子は鵜野讃良皇女の実の姉である大田皇女の息子でした。が、大田皇女は大津皇子が5歳の時に死んでしまったので、奥さん連中のトップは鵜野讃良皇女もちろん鵜野讃良皇女は、自分の息子草壁皇子をどーーーしても天皇にしたかった。

また鵜野讃良皇女は、ずっと天武天皇の政治を助けていたので、順番からいっても次男・草壁皇子が有力候補でした。ところが器量・才覚の点では大津皇子の方が上だったのです。大津皇子は「姿も麗しく、学問もできる上に武術も最高!文句のつけどころがない皇子」と言われていました。祖父である天智天皇も、大津皇子を可愛がっていました。

反対に草壁皇子は病弱でおとなしい性格。天武天皇も「次はどっちにしよう・・」と悩んでいたのです。自分が死んだらまた争いが起こるかもしれないと思い、大津・草壁・高市ら6人の皇子を連れて旅行に行き、仲良くさせることを約束しました。これが「吉野の盟い」です。


大津VS草壁 恋のバトル 

天武天皇の悩みをヨソに、大津・草壁は別のところでライバル意識バチバチでした。当時宮廷一番の美女で才媛であると大人気だった石川郎女(いしかわのいらつめ)を巡ってのバトルが始まっていたのです。最初に石川郎女を好きになったのは草壁皇子でした。

万葉集に草壁が石川郎女に送った歌が載っていますが「あなたのコトを少しの間でも忘れることができない」って内容の歌です。が、石川郎女は病弱で大人しい草壁よりも、容姿端麗な大津皇子のことがスキでした。最初はお坊ちゃまである草壁になびいていた石川郎女もだんだんと大津皇子に惹かれていったのです。

ここで出てくるのが鵜野讃良皇女。鵜野讃良皇女は自分の息子である草壁が、大津皇子に勝てないのをみて「まったく!何やってんのよ!小娘1人モノに出来ないなんて!」と、歯がゆい思いをしていました。

鵜野讃良皇女は天武天皇の血をばっちり引いていて、男勝りの政治好き。わが息子の恋がかなわぬのなら、せめて天皇にさせたろう!と画策するのです。


草壁皇子 皇太子に任命される 

鵜野讃良皇女は幸い(?)姉である大田皇女は亡くなってるので遠慮はいらないし・・・ってことで、ダンナである天武天皇に「草壁を皇太子に任命して!」とお願い。天武は、それをOKして草壁皇子は皇太子に任命されたのです。なぜOKしたかというと・・・

自分の亡き後、妻の鵜野讃良皇女がいれば草壁のダメなところをおぎなってくれるだろうけど、大津が天皇になってしまったら、色んなトコで陰口とか叩かれて一波乱あるだろう・・・と思ったのでした。そして686年 天武天皇が死去したのです。


鵜野讃良皇女の天下が始まる 邪魔者大津を狙う 

鵜野讃良皇女は、せっかく草壁皇子が皇太子となったものの、大津皇子は容姿端麗・文武ともに優れ家臣からも大人気だったので大津皇子がいたらいつ反乱を起こされるかわかんないな・・・と心配になってきていました。

さらに天武天皇は大津のかしこさを気に入っていたので、草壁を皇太子に任命してからも大津を政治の中に入れていました。そんな中で天武天皇が死去したのです。さぁ、こっからは鵜野讃良皇女の天下となりました。

朝廷は鵜野讃良皇女の言うことを聞くやつばかりで固められ、大津は居場所がなくなってきたのです。そして天武の死後1ヶ月に大津皇子にでっちあげの謀反の疑いをかけるのです。大津皇子は、計画さえたててないのに「謀反のかど」で逮捕されてしまったのです。

そして逮捕されてから3日後、死刑を言い渡され自宅で自害したのです大津皇子24歳でした。

この時大津の妃である山辺皇女は髪を振り乱して泣き、はだしのまま遺体にすがり離れずに一緒に死んでしまいました。大津皇子を殺した鵜野讃良皇女2年3ヶ月もかかった葬儀も終わって、これで息子の草壁皇子が天皇に!と思いきや、なんと草壁皇子が689年28歳の若さで即位もせずに死んでしまったにです!


690年 女帝 41代持統(じとう)天皇  

鵜野讃良皇女は悲しみまくりました。こうなったら草壁皇子の7歳の息子 軽皇子をを天皇にしようと考え始めたのです。天皇候補には高市皇子がいましたが、鵜野讃良皇女は溺愛した草壁の無念を思い誰が他のヤツにやらせるか!という感じでした。

軽皇子はまだ7歳だったので、孫が大きくなるまでは私がやる!と、鵜野讃良皇女は45歳にて41代持統天皇になったのです。天武天皇時代の鵜野讃良皇女の手腕を見ていた豪族らは誰一人反対しませんでした。


持統天皇 藤原京を造る 

まずは飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)という、大化の改新以来整えてきた仕組みを制度としてはっきりさせました。もともとは天智天皇が藤原鎌足とともに作ったんだけど、持統天皇により完成し、発足したと言われてます。また藤原京という、中国のマネをした立派な都を造りました。

藤原京には数千の人々が住み壮大な都となりました。持統天皇は一応「太政大臣」に高市皇子を置きました。まだ軽皇子が小さかったし、高市皇子は壬申の乱の時大活躍したので人気があり、しかたなく置いたという感じ。その高市皇子が43歳の時に急死してしまったのです。もー持統天皇超ラッキー♪

この時軽皇子はすでに14歳。「皇太子」にしちゃおう!と、一応重臣を集めて合議しました。皇位継承者には軽皇子の他に、天武天皇の皇子がまだまだいました。この合議にはのちに大物政治家となる藤原不比等も参加してました。そして合議では天武天皇の他の皇子を押す声が多く、意見が分かれまくった。

その時、大友皇子の遺児である葛野王が「兄弟間の相続は争いの元になる。持統天皇直系の血のほうがいいんでは?」とゴマすり意見を出したのです。これに藤原不比等も大賛成。

なぜ大友皇子の遺児がこんな意見を出したかというと、天武・持統時代、大友皇子の子として不幸な時代を送っていた葛野王に藤原不比等が「こう言ったらきっとあなたの立場は良くなりますヨ・・・」と入れ知恵したのでした。そして軽皇子は「皇太子」となったのです。


697年8月1妃 42代文武(もんむ)天皇 

14歳になった軽皇子は、反対勢力もたいしたことなかったため、すんなりと持統天皇から位を譲り受けました。持統天皇は「上皇」となりました。持統天皇は「天皇」をやめてからも「天皇」と同等(以上)の位置にい続けました。


702年 大宝律令ができる 

そして、天武天皇の子である刑部親王(おさかべしんのう)と、藤原鎌足の次男である藤原不比等に命じて法律の編集を進めました。これでできあがったのが「大宝律令」大宝律令は刑法にあたる「律」が6巻。行政法・民法・商法にあたる「令」が11巻という法典。初めて「律」が日本にできました。大宝律令の完成間近に行われてたパーティは超盛大に行われました。


702年 女帝死す 

ちびっこ文武天皇は持統天皇のバックアップの中、頑張ってました。が、とうとう702年に持統天皇が死去。文武天皇即位して5年後でした。持統天皇は日本初の火葬をしました。骨はダンナ(天武)と一緒になったよ。 


707年 43代元明天皇 

が、持統天皇が死んでから6年後、なんと期待されまくっていた文武天皇が25歳で死んじゃいました!どうやら過保護に育てられすぎて体が弱かったらしい。文武の息子はまだ7歳なので(ちなみに奥さんは藤原不比等の娘)文武の母で、草壁皇子のお嫁さんだった人が43代元明(げんめい)天皇になったのです。

元明天皇はこの時すでに47歳。そして持統天皇と同じく、自分の孫に天皇を継がせたかったため老体(?)にムチ打って出てきたのであります。当然朝廷内ではブーイングの声がでまくりましたが、それらを無視して即位したのです。


708年 元明天皇 大幅な人事異動を行う 

女帝元明は即位した翌年の708年 大幅な人事異動を行いました。そしてしばらく空席だった左大臣に右大臣だった石川麻呂をおき右大臣に藤原不比等を大抜擢したのでした。石川麻呂は名門豪族だった物部氏の末裔であります。

物部の血を受け継ぐ石川麻呂は、一目置く存在でした。が、717年に78歳という当時からしたら信じらんないくらい長生きの末死去。こっからは藤原不比等の一人舞台となるのです。


この頃の政治は?? 

中央政府の仕組みを簡単に説明すると、祭りをつかさどる神祇官(しんぎかん)一般政治を行う太政官(だじょうかん)があります。太政官は政治の中心となる役所で、太政大臣・左右大臣・大納言という職種があり、天皇と相談して政治を行います。

太政官の下には、8つの省をはじめとして、役所や警察などがおかれていました。また政府は公地公民制に基づき、全国の土地を支配するため6年に1度「戸籍」を作って6歳以上の人民に口分田(くぶんでん)と呼ばれる田を支給。支給された人が死ぬと、田は国に没収される。この仕組みが班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)

だけど、一つの家族の口分田が、1ヶ所まとめてじゃなくって、何キロも離れたトコに支給されたりしたため、みんな大変でした。ちなみに、戸籍に登録されたら一生引越し禁止また、政府は国司(こくし)を派遣し、国を支配させました。郡には郡司(ぐんじ)を置きました。これは、地元の有力豪族が任命されました。

大宝律令では、全ての人民が「良(りょう)」と「賤(せん)」という身分に分けられたのです。豪族や農民は「良」で、奴隷や雇い人は「賤」「良」の上には役人がいて、さらに役人は30くらいの位階に分かれてました。位階が5位以上は「貴族」

貴族は税金が免除される上、さまざまな特権が与えられていました。また、税金はあいかわらず調・庸・雑徭などがありました。大変だったのは、自分達で調(各地の特産品)などの税金を都まで運ぶので、運んだ帰りお金がなくなったりして行き倒れになる人がとても多かった。。税金払うのも命がけでした。また、青年男子には兵役があり、3人に1人が兵士として行かされました。

1年間都の守りにつく「衛士(えじ)」と3年間九州を守る防人。これは全て費用は自分持ち。また3年間の兵役といっても、実際は3年で終わることはなかった。交通の便も発達していないので、一旦兵役にでるといつ帰ってこれるかわかんない状況でした。悲惨デスいつの時代も、お役人ってヤツは・・・・次からは奈良時代です!

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